万治3(1660)年、城下町は碁盤割りの大部分を消失する大火に見舞われた。その再建にあたり、碁盤割りの南端にあった「堀切筋」の一部を拡幅し防火帯にしたという。これが現在の広小路通である。その後、この界隈は見せ物や屋台などでにぎわう繁華街となっていった。 ちなみに、拡幅した道路の幅については、15間とするものなど諸説ある。
万治の大火 正月行事の一つ左義長(どんど焼き)が営まれる14日夕方に発生したため「左義長火事」とも呼ばれた。火元は左義長の火、失火など諸説あるが、城下のあちこちで左義長を行っていたため、広範囲に広がったようである。以後、左義長は禁止されたという。
広小路 万治の大火後、それまでの堀切筋を道路として広く整備したのが広小路である。この時は、久屋町筋−長者町筋間、即ち本町通の1本西の筋までであった。そこから西は、明治19(1886)年の名古屋停車場開設にあわせて拡幅したとされている。ちなみに久屋町筋−長者町筋間は、概ね現在の栄町商店街の区間にあたる。